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北野 隆志 (1956年学部卒、元北海道新聞記者)
小生が3年目のとき――たまり場と称した部屋に1期下の竹川忠男君といたら、結城さん(結城錦一教授、先生方は皆東大心理出身だったので、呼び方も東大式に先生も何々さんと呼んだ)が入ってきて「君たちラジオ屋はね…」といわれた。続けて下駄履きで来ちゃいかんだったか、お小言を賜ったような気がするが、音叉とバイオリンで研究した結城さんから見れば、我々は真空管とスピーカーで研究するのだから、確かにラジオ屋だなと認め合ったものだ。
小生は中学生のとき3球ラジオを組み、高校生になってから腕を上げ、レコードのプレーヤーもないのに807シングルのアンプを組んだりした。大学への進学に際して、母の実家が小樽だったので、ダメ元で孫の顔見せと北大受験を許したのが親側の間違いの元。当時は進学適性検査があり文系理系同点だったが、工学部を目指して理類を選び、高校の部活の延長として、北大新聞会に入って自ら間違いを拡大した。
満洲引揚げで当時の中学入試に間に合わず、小学6年の延長である高等科1年に編入。2年になったとき学制改革で新制中学2年生。我々までは義務制でなかったので、農家の子弟はほとんど退学して3年生はゼロ。同級生は非農家の息子ばかり7人だった。
さらに高校受験に際しては県立八戸高校は生徒を募集しなかったため、普通科の進学先としては県立八戸女子高校しかなく、男子もいるからと校名を変えた八戸東高校を出るまでの5年間、男の先輩に接したことがなかった。それで新聞会に遊びに来る上級生の漫談が面白くてたまらない。
兵隊帰り、結核留年といったオンケル(小父さん)たちの話はとても勉強になった。3年目から住んだ下宿(北10西3、大黒病院南斜め向かい!)では、結核で北大病院に入院中、隣のベッドの北大生の話を聞き、完全に北大生に化けた男がいた。左翼思想の吹き込みも兼ねてか、新聞会に出入りする先輩は皆話好きだった。
最も危なかったのは、一般教養部の成績の「不可」は就職時の成績証明書には載らない。安心して遊べというアドバイスだった。それを信じたほかに、慶応大で開く全国大学新聞大会への参加が決まり、結核で入院中の編集長の代理で出る弱々しい副編集長の突っ支い棒を命じられて1週間欠席したのが、うんと響いた。
また中古品売買・物々交換の掲示板に、雑巾ダンス用タキシード求むと出したら、本当にタダで上着をもらえた。下ばきと帯は買い、見学だと柔道場に座ったら、年季の入った上着を見て、お願いしますといわれた。組んだ途端に素人とバレて、投げられ専門。これじゃ雑巾になりそうと空気投げ会得は諦めた。
先輩談では片親を殺すか仕送り僅少とすべき恵迪寮の入寮願書に、なにがし仕送りあり、小樽に叔父がいるなど正直に書いたばっかりに入れなかった同寮で赤痢が発生、寮生は外出禁止で、秋の対商大戦の応援負け必至と聞き、新聞会にあった反戦プラカードを「弱き者よ、汝の名は商大生」と書き替えて押しかけ、大物風にリーダーを務めた。それで殊勲賞として体育会から小生ら非寮生3人は空沼岳山小屋の宿泊券を頂いた。でも小生は「共産党はいいが山岳部だけはいかん」という父の言いつけを守って山小屋へは行かず、応援団のほかにヨット部に入った。
学部選びに際して数学の単位ゼロで4年で卒業は至難といわれたが、どっこい先輩談が生きた。文類から理類へNOだが、理類から文類へはOKという転類制度を知ったからだ。文学部の学生なら数学の単位がなくても卒業させてもらえたし、心理講座は”理類崩れ”を歓迎していると聞かされたこともある。物理の単位なしで転類した武藤真介君と小生、藤野隆、小貫雅夫両君は他学部に寄り道したため後輩になったが、皆理類13組からで同組61人中4人も心理に移ったことになった。
研究室に出入りし始めたころ助手の大場克巳さんの手伝いをした。水槽の金魚が通るマス目を数えたり、円山動物園のキジだったか、そこへ別種の鳥を加えたときの観察などをした。何かのときラジオを組んだ話をしたことから、それじゃ寺西君の方だとなり、4年間、助手の寺西立年さんに師事し、恰好よくいえば音響心理学専攻、結城さんのいうラジオ屋になってしまった。
文学部創設のとき、実験心理学の体裁を整えるため、霞ヶ浦の予科練の適性検査器具の払い下げを受け、講師の野沢晨さんがその輸送で苦労した話を何度か伺った。高圧静電気を発生させるバンデグラフなど訳のわからない大物類は、のちに竹川君と全部分解して階段教室の下の空間、倉庫へ放り込んだ。
我々のたまり場は元北大予科の物理化学研究室と聞いたが、部屋の真ん中に縦横高さが1メートル位のコンクリートの角柱が突き出ていた。精密天秤の置き場だといわれたが、それを撤去してストーブの場所にした。
隣りに同じぐらいの広さの部屋があり、暗くして視覚実験などに使われた。たまり場に寺西さんが作った嘘発見機と同原理の反応測定装置を置き、小穴を通したコードで暗室の被験者の指につけた測定端子とをつなぎ、ブザーで予告してから弱い電気ショックを与え、その反応を調べるための被験者にされ、実験者の杉山善朗さんから君は案外気が小さいんだねといわれ、実験の意義を知った。