本会副会長の北野隆志氏(1956年学部卒業)が,昭和31年(1956年)5月22日付の北海道新聞朝刊8面に掲載された,結城錦一先生の随筆「マニラの思い出」を見つけて教えてくださいました。
ちょうど,楡心会会員の武藤眞介氏 から『結城錦一先生の思い出』というタイトルで「楡心会会員からのメッセージ」にご寄稿いただいておりましたので,その近くに掲載させていただくことにいたしました。
なお,この掲載にあたり,北海道新聞社様,および,結城先生のご親族から許可をいただきました。心より感謝申し上げます。
私がヨーロッパへの旅の途中マニラに上陸したのは昨年の三月、賠償問題の成りゆきはまだどうなるか見当もついていなかった時である。船が港に近づくと、赤腹を見せた沈没船が、水路のあちこちにまだいくつもその醜い姿をさらして肝をひやさせる。一人歩きはまだ危険だからと大分とめられたが、すこしは冒険をしてみる覚悟で、船の停泊時間の五、六時間を利用して上陸した。
まだ三月のはじめというのに焼けつくように暑い。港から街へ、やがて戦禍のまだ生々しい破壊のあとが現れてくる。壊れたレンガの壁の向うに、まだ壕舎住いをしている人がある。気のせいか人の眼もけわしい。いまに、なにか起る気持がして、一人で来たことを後悔した。しかしこの恐怖心は、街の雑踏の中へ入っていくとともにだんだん消え失せた。復興した街の中心地では、軒なみにあふれるアメリカ商品の中を、アロハシャツの男女が泳いでいる。その人達の目は決して敵意をもったものではなかった。ある商店では、帰ろうとする私に、『日本はもう立直ったという話だね。一度行って見たいと思うが』と話して引きとめる。電話局で私が大学への通話を申込むと、係の人が、『大学を訪問するなら、タクシーにのらないと、あなたの船の出帆に間に合いませんよ』などと親切に教えてくれる。また両替しておいたフィリピン貨が少し足りなそうなので、あるレストーランに入りかねていたら、その店の入口にいた若い男が、それなら私が店に交渉してあげようと一緒に食券売場に来て、ドル貨のまま受取るように話をつけてくれた。
このように一年前でさえ、マニラは日本人に寛大で、むしろ親切であった。しかし、それは決して古い痛手を心のどこにも残していないのではなかった。最後に入った文房具屋では、私がマニラの復興の早いことを賛え、東京よりも立派な建物が多くなったことをほめたら、向うの建物のうしろに見える破壊のあとを指さして『あれが日本軍の破壊のあとだ。マニラでは立派な建物のうしろには、こんな悲惨なあとがまだたくさん残っているのだからね』といって、私をすくませた。
しかし、ようやくまとまったこんどの条約は、フィリピンの人々があの心底の深刻なわだかまりを、より一層なくする機縁ともなろう。港の入口に立っていた老巡査は、私が煙草を買わずに帰ってきたのを惜しんで『ここの煙草良質で安いからみやげに一箱でも買ってくればよかったのに』といって、船に帰りゆく私に、いつまでも手をふってくれた。たった三、四時間前に私と見知ったばかりなのに。これは同じ肌の人々が感ずる直覚的な共感のさせるものである。不幸な反感と憎悪との代りに、この共感が二つの民族を深いちぎりの綱で結びつける日の近いことを信じてやまない。 (北大文学部教授)
結城 錦一先生の紹介
戦後の昭和22年(1947年)4月21日、北大に初めての文系学部である法文学部が設置され、その法文学部に心理学の講座が哲学第7講座という名称で発足。その講座の最初の教員として、結城先生が赴任されました(北海道大学の在任期間は1947年3月31日~1965年4月1日)。北大文学部心理学組織(現・心理学研究室)の創始者と言えます。