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濱田 治良 (1976年博士課程単位取得満期退学、徳島大学名誉教授、心理物理学者)
徳島市(父)と甲府市(母)出身の私は福井県で生まれ千葉県と高知県で育ちました。福井の記憶はないのですが千葉では晴れ渡った日には東京湾越えで雄大な富士山がクッキリと眺望できる海辺で育ち夏には海水浴を楽しみ、また潮干狩りをしたのも懐かしい思い出です。高知では四国山地の物部川水系の山間で成長しました。この地は、厳冬には湧き水が流れる小川の水車小屋に水しぶきが降りかかり沢山の氷柱ができ、周りの緑の草木も氷で覆われて美しく輝く自然溢れる所でした。ところが中学3年生であった1962年8月に建設会社に勤めていた父が脳血栓で倒れて左半身不随になりました。そこで私は田舎にある高知県立山田高等学校に入学しました。ここから怒涛の青春が始まり、家族は生計が立ち行かず父の生家がある徳島に戻ることになりました。そこで徳島県立の普通科の高校への編入学を申請したのですが異なる県の間の壁は厚くて叶えられず、やむをえず徳島工業高等学校機械科に再入学しました。ここでの勉強は楽しくて工業数学と製図が得意でした。しかし大学進学への意思は強く残り、中学校の数学の教師になりたくて徳島大学教育学部を受験しました。その結果、第1志望の中学校課程数学には失敗したのですが第2志望の小学校課程への入学が許可されました。実業高校から国立大学への入学受験の扉は開かれていましたが極めて困難であり浪人せずに入学できたことは私にとって大きな自信となりました。そして高校で学んだ製図の特技はパソコンのない時代でのパターン知覚と認知の研究にとって必要不可欠なものになりました。また心理学教室があった小学校課程に入学できたことは極めて幸運なことでした。
実験心理学との出会いは徳島大学教養部1年次に伊東三四先生が心理学の講義で実験参加者を募集され、それに応じたことでした。その実験は暗室の中で光覚閾を測定するという大変興味深いものでした。光覚閾とは見ることの出来る必要最小限の光強度であり、条件に応じて変化します。2年次になり教育学部の心理学教室に所属し、心理学を専攻して数学を副専攻にしました。心理学教室には松田隆夫先生と海保博之先生がおられ心理学全体を幅広く学ぶことができました。その間も教養部で光覚閾測定の実験参加者を続けていて4年次になった時に光覚閾で卒業研究をすることを決めました。そして『視覚場における抑制効果と促進効果』と題する卒業論文においては4年間に亘る実験結果にもとづき、神経活動を興奮と抑制からなるメキシカン ハットで表現していた藤井・松岡・森田(1967; 医用電子と生体工学)の数理モデルを1973年に改良しました(図1を参照されたい)。つまりメキシカン ハットは光強度が強まるに従って先鋭化するとする光強度依存性モデルを提案しました。ここで神経活動を興奮(狭い正規分布)と抑制(広い正規分布)の差(DOG:a difference of two Gaussians)で表し、光強度分布とDOGの畳み込み積分で光覚閾の振る舞いを再現しました。その計算にあたっては数学教室の石原徹先生のご指導をいただきました。数学を副専攻にしたことが大いに役立ちました。このモデルはMach(1865; Ratliff (1965)に英訳あり)から始まりObonai(1957; Psycologia)とBékésy (1967, 邦訳あり)に繋がるものでした。徳島大学で三人の知覚心理学者と一人の数学者のご指導をいただいたことは極めて幸運なことでした。
図1 興奮と抑制を加算したメキシカン ハット状の神経活動。
4年生になると進路について小学校の教師になるか、心理学をさらに勉強するか迷っていて、1970年の秋にどちらの選択肢も可能と考えて大阪教育大学修士課程を受験して首席で合格できました。その頃にはまだ光強度依存性モデルを持っていませんでしたが1971年1月31日締め切りの卒業論文でそのモデルを発案していたので、光覚閾の実験を続けたいとの思いが揺るぎないものになっていました。そこで学習心理学を専門にされていた北尾倫彦先生にその旨を相談し、その許可を得て自力で実験装置を組み立てました。しかし、ここには実験に必要な極微照度計がなく製作会社の東芝株式会社にそれを貸してもらえないかを問い合わせました。すると、その照度計を貸すことはできないとの返答でしたが京都工芸繊維大学の秋田宗平先生(Columbia大学でPh.D.を取得)の実験室にそれがあることを教えてくれました。そこで指導教官の田中敏隆先生に相談すると、秋田先生にその照度計を貸してもらえるように、またご指導いただけるように頼んでくださいました。大阪教育大学に自由な雰囲気があったことも誠に幸運でした。
1971年の初夏に卒業論文を持参して秋田先生の研究室を訪れると、それを高く評価して極微照度計を貸して下さり、光覚閾の測定を始めました。そして秋田先生は大阪教育大学にわざわざ足を運び実験装置に問題がないことを確認して下さいました。さらに卒業論文の内容を大阪の堂島で定期的に開催されていた研究会で発表する機会を与えて下さり、それを成功裏に終えることがでました。しかし秋田先生が最新のマクスウェル光学装置を使って色覚の研究をされていたのに感化されて、修士論文のテーマを光覚閾の測定から色覚研究へと切り替えて修士論文を仕上げました。ここでの研究は心躍る斬新なものでした(秋田, 1969)。一方、秋田先生から「人間は変化を知覚している」ということを学び、変化を知覚しているのであるならばDOGの変曲点がエッジとして検出されているに違いないと考えました。すなわち光強度依存性モデルを改良して変曲点をエッジとして扱った数理モデルを1972年に着想しました。ここでDOGの頂点にもとづいたRatliff(1972; サイエンスに邦訳あり)の明るさ錯視についてのモデルに疑問を抱いたことも一つの切っ掛けでした。その後、徳島に帰省した折に松田先生の本棚にあったRobinson(1972)の中に人間は光強度分布の変曲点をエッジとして知覚しているとする記述を見つけその重要性を確信しました。一方、秋田先生からクロード・ベルナール著『実験医学序説』を紹介いただき大変感銘をうけ、この本の精神は私の心理物理学的実験の支柱になりました(Bernard, 1865の邦訳あり)。そして秋田先生の指導下で色覚研究を続けたくて京都大学の文学研究科と教育学研究科の博士課程を受験したのですが合格できませんでした。それにもかかわらず、秋田先生は相場覚先生(London大学でPh.D.を取得)のいる北海道大学の博士課程を受験することを強く勧めてくれて推薦状を書いて下さり無事に合格できました。
北海道大学では最初に秋田先生の紹介で工学者である同大学応用電気研究所の古川友三先生にお会いして卒業研究から発展させていた数理モデルを説明しました。すると、それを高く評価して大型計算機でシミュレートすることを強く勧めて下さいました。そこで相場先生の許可を得て、古川先生のご指導に導かれ約1年間の試行錯誤の後に輪郭線知覚についてのシミュレーションに成功しました(相場, 1970)。ここでの最終的な論点はBergström(1966)の実験データとStevens(1961)のベキ法則を使ってDOGに光強度依存性を持たせ、その変曲点をエッジとして扱うことでした。そして相場先生の懇切丁寧なご指導の下で最初の英文原稿を書くことができました。丁度その時期には国際心理学会記念基金運営委員会がYoung Psychologistを募集していて相場先生の推薦で、その論文は受理されてパリ開催の第21回国際心理学会(1976年)で発表しました。ここでの査読者は東京大学の田中良久先生でした。その後、相場先生の指導下でHamada(1976; Hokkaido Report of Psychology)を刊行しました。しかし、それを某国際誌に2回に亘って投稿したのですが理解されず不採択になってしまいました。にもかかわらず、この成果が評価されて今井四郎先生(Johns Hopkins大学でPh.D.を取得)の助手に採用され明るさ錯視の実験を行いました。そして今井先生の懇切丁寧な指導で濱田(1980, 1983)とHamada(1982)を刊行しました。ここから人間理解の一つの試みとして感覚知覚認知のメカニズムを心理学的・数学的に解明するという目標を見つけました。今にして思えば北海道大学には戸田正直先生もおられ私にとっては最高の大学でした。
1976年出版の第21回国際心理学会発表抄録集を読んだドイツのDr. Walter H. Ehrensteinから1977年5月2日付けの手紙が届きました。その内容は彼のご尊父が発見したEhrensteinの明るさ錯視を私の数理モデルで説明できるかとの文面でした(Ehrenstein, 1941の英訳あり)。そこで北海道大学大型計算機センターでプログラム相談員をされていた天野要氏と一緒にデジタルコンピュータを使ってシミュレーションを試みましたが、この明るさ錯視の発生メカニズムは複雑で変曲点の考え方だけではシミュレートできませんでした。しかし、この手紙を契機にしてWalterは英文草稿を改良して下さり明るさ錯視に関する7編の論文を国際誌に発表することができました。彼がいなければ、それは不可能だったと思います。彼は、私たちが日本とドイツの懸け橋になろうと言ってくれました。
1982年に母校の徳島大学に赴任してからも明るさ錯視の実験を継続しました。ところが相場先生の研究室を訪れていたUniversity College LondonのMichael J. Morgan先生が不採択になった輪郭線知覚に関するエッジ検出の数理モデルが記されたHamada(1976)を精読し、1976年にMarr and Hildreth(1980)などを超えた論文が日本で発表されていたのは驚きであると高く評価し下さりました。相場先生の紹介だと思いますが、この論文がMorgan先生の目に留まったのは奇跡でした。そして、この論文をBiological Cybernetics 誌に再投稿することを勧めて下さりました。その結果、Hamada(1984)として刊行できましたが国際誌に発表するまでに徳島大学1年生から数えて17年が経過していました。
輪郭線知覚と明るさ錯視の研究はPerception & Psychophysics誌やBiological Cybernetics 誌などに掲載されましたが、その草稿に対してUniversity of FreiburgのLothar Spillmann先生とDortmund UniversityのWalterが改良して下さいました。またBoston Universityの Stephen Grossberg先生などからも貴重なご助言をいただきました。さらに文部省とドイツ学術交流会(DAAD)の支援によって1991年の10ヵ月間、家族と一緒に、Dortmund Universityに在外研究員(同大学感覚神経生理学部門 客員研究員)として派遣されたときの成果がHamada and Ehrenstein(2008; Gestalt Theory)です。実験から刊行までに実に18年の歳月が必要でした。その時期はWalterが亡くなる直前で、多分、闘病中にこの論文を仕上げてくれたのだと思います。約30年の親交がありましたが58歳のあまりにも早い親友の逝去でした。